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人間関係にピリピリするO型さん

 

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親しくなる友人には、案外、血液型の偏りがあるものです。わたしの場合は、O型の友人が最も多いようです。AB型とO型は対照的な気質なだけに、合わせやすいところと合わせにくいところがはっきりしているせいで、「O型は苦手〜」と思ってしまうAB型も少なくないですし、「AB型は全然わからん!」とお手上げ状態になるO型も、結構いらっしゃることでしょう。

 

そういう中で、まあ、当然といえば当然なのですが、わたしは”血液型”のことを学んできたおかげで、AB型的思考では「ついていけないかも…」とさじを投げてしまうようなO型の行動も、「なるほど、これがO型か」と、感心したり、微笑ましかったり、自分にはない魅力として映ることが多くなります。

 

こちらがそうだから、すると相乗効果で相手の方も温かく受け入れてくれるというもの。そもそもが、大らかなO型さんであるわけだし、こんなわたしでも友だちになってもらえるというところもあるのでしょう。それにO型とAB型は、一緒に遊んだり、ある目的のために共に行動したりするときには、不思議とリズムを合わせやすく、そういう点でも、わたしにとってO型は、つき合いやすい相手であるのです。

 

ところがそんな”O型好き”のわたしが、時おりため息をつきたくなることが、ひとつだけあるのです。それはO型が、人づき合いに対して、(わたしから見れば)とても神経質なことです。“神経質”というと、”大らか”というO型のイメージが定着している昨今、少々似つかわしくない言葉に聞こえるかもしれませんが、“神経質”な部分というのは、どの血液型にもあるもので、神経を細かく使う場所が、各々の血液型によって異なるということなのです。

 

さてそういうO型さんとおつき合いが始まって、いろいろな関わりを持ち始めると、必ずといっていいほど、「このこと、あの人には黙っていてね」と、念押しされるような場面にぶつかるのです。もしかすると、おしゃべりしちゃいそうな軽口な気配をわたしがかもし出しているのかもしれませんが、それにしても、そんな言葉をO型から聞くと、「やはりO型だなあ…」と、つい思ってしまうのです。

 

O型は、仲間をとても大切にします。社会の中で生き抜くためには、人間関係がどれほど大事かをよく知っているのがO型です。ゆえに、複雑な人間社会の中で、自分の立ち位置を確保し、自分が不利にならぬように、仲間を失わぬようにと、細心の注意を払い、気を配ることにいとまがないのです。それが男社会のO型男性であったりしたら、口には出さずとも余計な軽口を言ったのが知れたとたん、「信用できんヤツ」とバッサリ縁を切られかねません。

 

こうした傾向は、O型の共通性として表現されているに違いないのですが、日本の社会風土や国民性のなかでは、ことさら強く現れているように感じます。例えば「本音と建て前」なんていうのはその典型で、日本では社会人の常識のようなもの。それが分からないようでは、この社会に適応するのは難しい…。そういうことで、社会に出てからのO型は、一生懸命、それに合わせていくのではないかと想像します。

 

とはいえ、ストレス社会も極まって、人々が疲弊困ぱいしている今日この頃、そんなO型を見るたびに、「気の毒だなあ」と思い、社会がもっとゆったりしていれば、そんな些細なことにハラハラしなくて済むのになと、ちょっぴり残念な気持ちにもなるのです。

 

世の中が、本音でつきあえるような、本来のO型らしい開放性を自然に出せるムードがあれば、O型も、そんなことに神経をすり減らすストレスから解放されるに違いありません。もちろん、だからといって人を傷つけて良いというわけでもなく、「思いやり」と「本音」は、たしかに矛盾することが多いのも事実。しかし、人間や社会が進化するには、こうした矛盾を乗り越えて、ちょうど良い在り方を見つけていかなければならないのでしょう。

 

わたしはその鍵は、「愛のもとに」ということに尽きるのではないかと思います。自分の言葉、行動、思考、すべてのその源に、「愛」とか「慈しみ」があるのなら、少々の行き違いや誤解は、解決できるのだと信じたいものです。「ああ、またそんなキレイごと言って」なんて、O型から見たら大いに慎重さに欠けるわたしの言動は、到底、信じてもらえないかもしれないのですが。

 

​© 2004 by Humanscience ABO center

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