最近は日本でも、"ボランティア"(=無償の奉仕活動)が盛んになってきました。欧米などのキリスト教社会では、ボランティア活動の社会的な地位が確立されていますが、日本では、それは個々人が自発的に行うにすぎず、特に近年は「ただの"お人好し"」とむしろ馬鹿にされるような風潮さえありました。
日本でもそれが非常に盛んになったきっかけは、1995年の阪神淡路大震災かもしれません。その時、本当に多くのボランティア志望者たちが全国から駆けつけたと聞いています。そして続く2011年の東北大震災や各地で頻発する自然災害、あるいは地域社会の問題において、組織的なボランティア活動も活発になりました。
友人からこんな話しを聞きました。
「AB型の友だちがいるんだけど、いつもすごく淡々としていて、あまり積極的でない人なのに、東北の震災で救援物資を被災地に送るボランティア活動の話しをしたら、ビックリするほど行動的だったのよ!」
あるいは同じく震災のとき、休日を利用してボランティア活動に参加しようと、AB型男性が、職場の仲間たちに呼びかけたそうです。多くの人がその場は賛同してくれたのですが、当日、実際に集まったのは、4人だけ。そして全員が、AB型だったというのです。
AB型が「ボランティア好き」というのは、以前より伝えてきました。AB型は日常では、それが他人であろうと身内であろうと、多かれ少なかれ一定の距離を置きたがります。どういう距離感かというと、たとえば、どんなに親しくなっても、相手の生活や人生にとことん関わり、気持ちや感情に干渉し合い、影響し合うというような、スキンシップな関わり方が少ないのです。それはAB型が、客観的で分析的な思考性の気質を持つからだと考えています。
客観性というのは、対象と距離を置かなければなりません。だからこそAB型は、分析力という点で優れる人が目立つのです。しかしそれは、しばしば行動に、さまざまな抑制を与えます。
「こうすると、こうなって、ああなったら嫌だし、まあいいや、やめておこう」
という感じでしょうか。
AB型の行動や感情表現が淡々と見えるのは、そうした客観的気質が一因しているのです。身近な人は、そんなAB型に時々物足りなさを感じることでしょうが、実はAB型自身も、自分が周囲に上手に溶け込んでいるだろうかと、どこか不安がつきまとっているようです。AB型にしたって、もっと人と繋がりたいという欲求は、他の人々と同じように強く持っているに違いないのです。
そこで、ボランティアというのは、AB型にとって、非常にありがたい"大義名分"になります。つまり、社会や人とコミットするためのAB型なりの手段になるのです。
日頃の人間社会というのは、あっちを立てればこっちが立たず、余計なことをすればするほど、ややこしくて、常に人間関係にもつれをもたらしがちです。そういういざこざを冷静に眺めているAB型は、
「ああ、そんな面倒なことに関わるのは御免こうむりたい」
と、足がすくんでしまうのです。しかし、ボランティアという大義名分があれば、利益損得を考えずに済むし、それで誰も文句はいいません。AB型が、気兼ねなく行動力を発揮できる機会というわけです。
それにしても、一銭の得にもならないことに汗水たらして奔走しているAB型の無私の姿を見かけると、こんな風に理屈っぽく論評するのは、少々申し訳ない気も致します。
無私の博愛精神、無償の奉仕精神。これからの人類社会では、大きなテーマになるでしょう。新人類AB型は、未来に向かって一歩先を行く人々なのかもしれません。そういえば、私もAB型でした。私の場合、AB型の風上にも置けない...と、言われそうですが。
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