日本で血液型と人間の性格行動について言われるようになってから、かれこれ7、80年になります。そして各血液型に対するイメージのいくつかは、一般的に定着してしまったようです。
それというのも、当初は我々のような研究サイドが情報を発信したに違いないくても、それが人々に噂のように伝わり、ご自分の身の回りで「なるほど、そういう人が確かにいるな」と、確認したり納得した結果なのだと思います。
ただし中には、誤解を招く認識があったり、一面的なイメージだけが広がってしまったり、物議をかもすこともあります。
たとえば、A型が『几帳面』というイメージは、世間一般にずいぶん定着していますが、この一つの項目だけが独り歩きすると、それだけでA型性を説明することは当然不可能で、すると…「私、ぜんぜん几帳面じゃないし、A型っぽくないし」などと、一種の反感をかうことも、しばしばあるのです。
そんなとき、別の側面からみた、もうひとつのA型の特徴である『完璧主義』というのを加えて説明してみると、「ああ、それなら分かる、納得する…」と、だいぶ共感してくれるようになるのです。
人間の性格について語るのは、簡単ではないと、この仕事を何十年もやっていても、未だにつくづく思うわけです。
では例にあげたA型さんの『完璧主義』とは、どんなものでしょう。それは、
「やるなら100%完璧にやる、やらないなら何もやらない」
というような、ゼロか100かの選択をする感じであります。この、100を目指しているときの過程を他人が見たときに、『几帳面な人』だと感じるでしょう。
こんなことがありました。当センターの理事長だった(故)能見俊賢は、A型でした。先生は大へんおシャレな方で、常日頃、それはもう、"完璧"に身の回りを整えておりまして、スーツを着れば、靴はピカピカ、上から下までホコリのひとつも、付いているのを見たことがありません。
ところがある朝、私が事務所に行くと、かかとがぺしゃんこに潰れた革靴が、玄関に置いてありました。(あれ?この靴、誰のだろう。お客さんかな?それにしてもこんなに潰しちゃって!)
私は不思議に思いながら中に入りました。しかし、先生以外は誰も来ている様子がありません。それで、おそるおそる聞いてみました。
「あのう、外にある靴は、どなたのですか?」
すると…
「ああ、あれね、あれは僕のだよ」
と、先生がニコニコしながら言います。
「昨日、出かけた先で急いで靴を履いたら、かかとが折れちゃったんだよ。だからいっそのこと、全部つぶしちゃったんだ。いいでしょう?なかなか履きやすいよ」
と、何だか、やけに嬉しそうです。よく聞いたらその革靴、まだ買ったばかりで、1回しか履いていなかったそうです。
A型の人が思い切ると、まったく…。これを潔いというべきか、もったいないというべきか、いずれにしても、ゼロか100しかないんだなと、A型の『完璧主義』ぶりを、改めて理解した瞬間でもありました。
そう言えば、革靴のかかとを踏んづけて裸足で履くというスタイルを、最初にやったのは、日本映画界往年の大スターであった、石原裕次郎だと言われています。当時、彼の着くずしたようなファッションスタイルは、ちょっと不良っぽくて、それがカッコ良く、若者たちの憧れだったんですね。
裕次郎さんがA型だったことを考えると、好きなヨットでしょっちゅう海に出ていた彼は、靴下はどうせ濡れちゃうからいっそ「裸足でいいや!」ってことになり、靴は脱ぎ履きするたびに神経を使うから、「え~い面倒くさい、踏んづけちゃえ!」って感じだったのかなと、先生のかかとの潰された革靴を眺めながら、思ったのでした。
しかもA型の場合、「これでいいのだ!これこそが正しい!これこそ完璧なのだ!」と、何となく、周囲にそう思わせてしまうカリスマ性をかもし出すから、恐れ入ってしまうのです。
とにかくA型の人は、多かれ少なかれ、どこかしらに完全性を追い求める性質を持っているわけで、しかしその完全性を保つのが難しい局面を迎えたりすると、すっぱりと手放してしまうことがあるのです。あるいは、常に完全性を目指す一方で、そうした緊張感から早く解放されたいという願望を、同時に持っているところもあるようです。
そりゃまあ、そうですよね。A型さんだって、ず~っと、ピ~ンと、張りつめていたいはずがありません。
「うちの旦那、ほんとにだらしないんだから!」
と、A型の風上にも置けないようなA型ご主人がいらっしゃるとしたら…。代弁するなら、せめて家ではダラダラと、力を抜きたいからなのですよね。